昭和44年05月30日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」
金光教的助かりとよく言われますが、金光教的な助かりとはどういうような助かりであろうか。御道の信心によって助かる。助かるという事はどういう事を助かるというのであろうか。ここで私は厳しくそのう分からして頂かなければならない事は、例えばですよ人間であってもです。人を助ける働きが出来なかったら、ここにゃあの出ております、牛馬と同んなしという事になるのですよね。大変な私は厳しい表現だと思いますね。牛馬は我が子が水に落ちても助ける事が出来ぬ。
そこで金光教的助かりという事を分ってです。そんなら金光教的助けるという事ですね。助ける事が出来なかったら、もう牛馬と同し事だという事。私今日そこんところは改めてそういうふうに頂きますですね。大変厳しい事であるけれども、ここんところが分からなければ、本当の金光教的助かりって事になってこないと思うですよ。人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよと。本当に人の難儀が助かる事という事は、有り難いと心得て信心するという事は、果たしてどういう事か。
なら金光教的な助け方って言うのはどういう助け方かと。お金を不自由しとんなさるからお金を貸して上げる。又ただで上げる。まぁその時だけ助かるという助かり方は、これは金光教的助かりじゃないんですよね。根本的にその人が助かるとい事です。例えば先日の久留米での松栄会の会合の時、に秋永先生が話したと言われるように。その例えばあのう金光教的な助かりというか、それをあまりにもね、例えばなんちいうですかねぇ。慈善事業的もの。だからその中にこのう金光教の社会性という事が問題になった。
そしてそのう会合でですね、養老院の慰問といった様な事が、話題に出たんです。だからそういうような事をもって、その金光教の社会性と、又は金光教のいわば教えによって助けるといったような事は、こりゃもう普通一般のまぁ道徳的なものであってね、金光教の助かりといったようなものは、そういうもんじゃないのだと。金光教の今後の社会性というのは、そういう事に結び付けては本当じゃないんだと、いうような事をその力説したと。それでまぁ一部の人達がそれを分かる人分からない人と。
先生方の中にそのう合楽がいうのが本当だと、いったようにその共鳴を得たと、いったようなお話しを昨日しておられましたが、そうなんです。例えばそのう養老院に行かなければならないような人達の所へ わずかばかりの慰問を持って行って果たして助かるかと。根本的に助けにゃならんそんな事で。乞食に物を恵むといったような事。そういう例を話しておられますが。乞食に物をやるといかにも助けたごとある。自分だけは優越感を感ずるです。自分は乞食に恵んでおるとこう思うから。
けれども問題はね、それではいけんのだと。乞食自身が助からなきゃいけんのだと。乞食に物をやる事によって、いよいよ乞食根性を起こすじゃないかと。いよいよ乞食から立ち上がる事すらあぁその考えないのじゃないか。こりゃもう「乞食三日すりゃやめられん」といったような結果になるんじゃないかと。そういう事を以て、金光教の助けるという事。社会性と結び付けるといったような事はですね、今後の金光教は、大いにそのう反省しなければならない事だという訳なんです。正にその通りなんです。
本当に私は助かるという事ね。だから金光教でいうところの助かりとは、どういう事かと。又助けるという事はどういう事かと。そしてもし金光教の信心をしておっても、その助けるという事がですね、出来なかったらもう既に牛と馬と同じ事だという事です。今日の御理解はそんなに厳しい、こう私は感じるです。又教祖様はそこんところをまたそのう深いところに於いては、説いておられると思うのです。そこで私共はどうでもそのういわゆる、人間は人を助けるのが有り難いと心得てという信心しなければいけん。
という事になるのですよね。なかなかねぇ人を助けるということ。だからその事が有り難いと心得て信心する。いうならばですもう牛馬同様のものじゃないのだと。人間万物の霊長としての値打ちをいよいよ発揮させて頂けれる道を、教祖は説いておられるのである。一生ただ助けてもろうただけ。助ける働きはなんにもなかったとするなら、それは万物の霊長、お道でいうところの人間万物の霊長としての、人間としての値打のない、無価値な生き方をしたに過ぎないのです。
価値ある生き方価値ある生涯であらなければならん為にもね、こりゃ本気で私共自身が助からなければいけないという事ですね。私共はそういう気になって信心させてもらうところからですね、いわゆる助かりという事になって来る。ですから金光教のですね、助かりというのはどういう事かというと、先ず自分が助かってそして後に人を助けて行くといった様な考え方ではなくてですね、やはり何と言うても私が助かるという事はね。人を助けて我助かるという助かり方です。これが自分が助かるということです。
「神様どうぞ助けて下さい。助けて下さい。」と言うて助かるとじゃないとです。だからそういう人がどのくらい多いかという事。「助けて下さい。助けて下さい。」と言うて、一生を終わっていく人が。もちろんおかげを受けますよ。助けられますよ。けどもそれではですね、例えば今日の御理解から言うとです。牛馬とあんまり変わらない助かり方なんです。人を助けてというその人を助ける事によっての、人の喜びが神様の喜びが潤うて、自分の助かりに照り返って来るという助かり方なんです。
そして自分が私が先ず助かっとらんけんでね、私がおかげ頂ききっとらんから、助けも出来けんといったような事じゃない事が分かりますね。助かっとらんから助けにゃいけんのです、自分が。自分が助かっていないから、人を助ける働きをせにゃいけんのだと。そんなら人を助けるという事は、只今申しますようにそのう秋永先生の話を例に取りましたが、そういうそういうね事ではない事が分かります。お金を恵んであげたりね、ちょっとばかりの自分が親切だと思ってする事がですね、人を助ける事にはならない。
却ってそれがです相手を助ける事から 意欲を無くさせるような助け方は、それは只自分が優越感。自分が助けたと思う只それだけの事である。昨日の朝の御理解の中に、孔子の例を取りましたですねぇ、ものがいやこれ人間としてですよ、人間として不幸せというかね、人間として物が集まらない金が集まらない、様々に金が無くて難儀をするといったような事は、恥ずかしい事だと孔子はいっとります。なら今度は沢山なお金こりゃお金に絞りますならば、これは物とこう仰ってるのは全ての事だと思いますよね。
もしそれが集まってもですね集まってもそれを自分の物私ししたら、又これはより恥ずかしい事だと孔子はいっております。してみると世の中にゃ恥ずかしい人間ばっかりが殆どという事になりますよね。言うなら神様に顔向けの出来ない人間ばっかりだという事になりますよ。私はその事を思うてみたんですけれども、合楽に御神縁を頂いておる人達はですね、そういう意味でですね物が集まるという事。物が集まらないという事は恥ずかしい事ですけれども、物が集まるというそこ迄のおかげは受けておるという事ですね。
そうでしょうが。合楽で例えば一番貧乏なのは私でございますと、例えば思うて御覧なさい。その一番の貧乏のあなたがです、日々万事、御都合お繰り合わせを頂いておるでしょうが。それを例えば安心が無いもんですから、もう今日使い切ってしまうと、もう明日が不安であると。実を言うたら安心しておって良いのだ。喜んでおって良いのだ。明日よし食べる物が無くても、今日食べる物のあったという事のおかげを受けておるという事ですよ。合楽の人達は。
だからここで喜ばなければ喜ぶところはないのです。だから明日は明日。もうそれを難儀に感じたらです、恥ずかしい事なんです本当言うたら。お金があればあれも買おうこれも買おうというのはこりゃ贅沢なんです。現在の信心というか現在のお徳というかね、なりのものを受けておるというのですから、これは有り難いのです。そこんところに有り難いと感じたらですね、あぁた方はいわば恥ずかしいという、物が集まらないという事は、恥ずかしいのであるから。
物が集まっておるのであるから恥ずかしい事はないでしょうが。おかげを受けとるという事になるでしょうが。必要な物が必要に応じて、その必要な物というのがです、自分の身贅沢な物を必要と思うておるから、集まらんのであって自分に丁度適当な物が、ここに集まっておるんだと、分からして頂く時にです、合楽の人達はそれだけは頂いていきよるでしょうが。寒いときにいわば本当に着物が無くて、寒い思いをしておるという事もなからなければ、やはり三度三度の食事も与えられておるし。
おかげを受けておる恥ずかしくいないです。けれどもそれをまぁだ頂きたらんように思うておる事が、実を言うたら恥ずかしい事なんだ。だから足りない。例えばそういう不足を感じるならですよね。結局自分の信心をもう一段高めていかなければいけない。ですから次にいうところのですね。そこに物が集まる。そして自分だけでは使い切れない。それがですね。今日の御理解で言う人の助かる事の為に行使される。それに物に光がつくのであり、例えばお金であるならばお金に光がつくのである。
金光なのであるいわゆる。だからそこんところを合楽の人達は、頂いてゆかねばいけない。これからどのようにおかげを頂きましても、それこそ億万長者と、いわれるようなおかげを頂きましても、それを私視しないという。私は思い込みが出来る事によって、お金にもいよいよ不自由、いわばゆとりのあるというか、余るほどのというか、こぼれるほどのおかげが頂ける事を、先ず知らにゃいけませんね。これからのおかげですこれまでは頂いておるのだ。
だからこれから今度頂いても、それをところどころが信心をしておってもです、ここまでのおかげを頂いて、もう溢れるようにおかげを頂いて、身贅沢が出来るようになって、それでもです。それをやっぱ自分のものとしておるような人が、金光教の信者の中にもたくさん有りますよ。これはだから恥ずかしい事になる。集まったものを私視する。私の物だと思う。そういう根性は神様に顔向けの出来ない、私は心だとこう思うです。今日は人間は人の難儀を見て助ける事が出来る。
その助ける事が出来るという事が有り難いと心得て信心せよというのである。そのいうなら金光教で言う助けるという事はどういう事か。又は助かるという事はどういう事であるか。金光様の御信心を頂いておっても、人を助ける働きを持っていなかったら、ここにある牛馬は自分の子供が溺れておっても助ける事は出来ぬ。そんなら人間でもですよ。助ける事の出来ない人間は、もう牛とも馬とも同し事だという事です。こりゃもう人間としてのそれこそ自覚に立たなければなりませんですねぇ。
先日から神の氏子としての自覚という事でしたけれども。先ずひとつ人間。人間は人が助ける事が出来るのを有り難いと心得てとこう仰っる。助ける事の出来れる人間。そこに本当の例えば人間万物の霊長としての価値のある人間、価値のある人間としての、だからそういう人間としての自覚に立たなきゃいけん。それには余りにも光がなさ過ぎる訳です。自分のものにゃまだ光が伴うていないという事。徳の裏付けがないという事。億万の金を持っておっても、それは私の財産だというような思い方は。
もうそれは徳の裏付けはないというてもいいです。例えばお金であるならそりゃもう偽金と同じ事じゃ。いつかは捕まえられる。いつかは取り上げられる。偽金使いと同し事ね。日本の例えばお金がですよ、日本国家がそれに対する金貨の保障というのがあるから、百円札は百円札。千円札は千円札としての値打があるのですけど。けれども形は同んなじでありましてもよ。それが偽金であった場合には国家の保障がないから。それをまぁ使ってひっかからん間はよかけれども。
それを使って引っ掛かる事になったら、偽金使いとしての罰を受けなければならないのですよ。いうならば私共の財産にです、天地が保障をしておって下さる。天地がそれに対する裏付けをしておって下さるね。だからその金やら物に、光が出てくるのです。間違いがない。けれどもその例えば、物やら金やらにですね、天地の裏付けがない。只自分の裏付けだけ。それはもう偽金と同じ事という事になる。私の私の金という事になる。天地の裏付けがない。
ですからそれは億万の金であっても必ずそれによっていわば偽金使いが、罪に問われるようにです、必ず罪に問われ時が必ずくる。天地の裏付けのあるものを、私共は求めての信心をさしてもらわなければならん。どうでしょうか。少し難しいでしょうかね。人間は人を助ける事ができるのは、有り難い事ではないかと。そんなら金光教で言う人を助けるという事はどういう事か。お金が無いといいござるけん貸してあげたり、あげたりする事が助ける事かと。よくよく考えてみるとそういう事じゃない。
根本的にその人が助からなければね。本当の助かりにはならない。根本的な助け。そんなら本当に助かるという事は、本当に助けるという事は、自分が助かっていなくても、助けられるという事。本当の助かりという事は、自分が助かっていなくても助けられるという事、今日ここではね。そこを人を助けて我助かれ。その人が助かる。真実助かる。その助かる事の相手の喜び神様のお喜びがです。こちらに照り返ってくる事によって、こちらが受けるおかげ。助ける事によって自分が助かる。
そういう助かり方が金光教的助かりというのだと。ですからこれはもう本当にいろいろ工夫してみなければいけない事だとこう思うですね。先ず第一にです、物が集まらないという事は恥ずかしい事だと。もしここにお金がこれこれ要る。ところがいらん場合もいると思う時がありますから、ここんところよく分らないけませんがね。先日ある方が手形のお願いに来られた。ここに例えば三十万なら三十万のお金が、その三つの手形が落とさなけりゃならん。
ところが十万円だけはおかげ頂いたが、あと二十万円だけはおかげ頂いていないね。とうとう一日それが落す事が出来なかった。だからその人は恥ずかしい思いを自分でですよね。恥ずかしいとまぁ思わなければなりませんけれども、実は思わんでよかった。というのは一口だけは回って来たけれども後の二口は回って来なかった。してみると必要なだけはちゃんとおかげ頂いておるのであるから、恥ずかしい思いをせんでもよかったという事になる。明くる明くる日回って来た。その時にはもう既に出来けておった。
ですからひとっつも必要なものが必要に応じて集まって来ておる。だから例えばですね、私はそこんところへですね、今日はどうしても三十万円要る。けれども十万円しかない。はぁ今日はこの十万でよいんだなと、確信出来るような信心を頂きたいと思うのですね。あと二十万円足らんからちゅうてから、もうウロチョロしょる、せなならんといったような信心ではなくて、はぁ今日は十万でいいんだなと確信出来て、それがなる程十万円でよかったというようなおかげを頂きたい。
恥ずかしい思いをせんでそれは恥ずかしい思いをせんでもよいのである。だから合楽の人達はそこ迄はおかげを受けておる。ところが物が集まる。その集まったものを自分のものにする。私のものとする私のものと思う。私視するという事はそれよりも、もっと恥ずかしい事だと孔子が言うておるようにですね。これは神様の言うならば、預かり物としての頂き方。神様の御物としての頂き方。これが充分出来なければ、そこも頂けんと私は思うですね。頂けても恥ずかしい事になるんです。
そういうおかげを頂かして頂きながらです、その頂くものに光を頂く。神様の裏付け、天地の裏付けをそれに頂いておかげを頂いていく。これは人を助けて我助かるという事。人を助けるといったような事にはね。大変な厳しい心がなからなければ人を助けられんですね。例えて言うならば、獅子は自分の子供を育てる前に、その生まれた赤ん坊の獅子を谷間に一辺蹴落すといわれておる。そして這い上って来る。這い上がって来る勢いのある者だけを助ける。
その這い上って来るうちにですね、ライオンとしての百獣の王としての、様々なものを身につけてくる訳です。逞しさを身につけて来る訳です。私はこういう助け方は、例えばひとつの一例ですけれども素晴らしいと思うですね。そこにはです例えば蹴落しただけではない。蹴落しただけならこれは冷たいという事です冷淡です。けれども上から見守っておる親獅子がです、どうぞ這い上がってくれという祈りと願いを持っておるというところに、私はおかげがあると。
いかにも冷たいようである冷淡なようであるけれども、それによっていろんな事を分かってくれよと。血みどろになって上ってくる時に力を得てくれよと。そういうもうそれこそ自分の方が谷間へ落ちた方がよか位な、いわば思いを持ってですね、その這い上って来るのを見守ってやれれる。又祈っておれれる信心。そういいう厳しさの助け方と、の出来れる信心が、これはもう絶対その事によって蹴落された人は、いよいよ助かる事であろう。そしてあの時にあぁしてもろうた事が。
私の根本的な助かり元になったという事になるであろうと思うのですね。ただ蹴落しただけならこりゃ本当に冷たいですよ。冷淡です。ところがそこんところが出来ないですね。ある信者友達の人、お金を借りに来た。ある人のところに。もう実に後から話しを聞いてから剣もほろほろに断っておる。私は断る事はいいけれどもその後をですね。祈ってやっていないという事ですよ。その人が本気で。ですからその人は信心を止めてしまいました。これだけ信心の友達がね。
だからそれは形はそれでもいいからその後にですね。その人が立ち上れるくらいな祈りというものが影になかったらですね、もうおかげこれでは又助からない。これはね本当に人を助ける事が出来るという。ならお金は持たんでも、助ける事の出来れる働きなんです。そこでやっぱり何と言うてもですね。人を助ける事が出来るという事はです。人が助けることが出来るという、人を助けてそして自分も又助かる事が出来るという事はです、何と言うてもお広前に、お引き寄せを頂かせるという事だと思うですね。
そこにその人の根本的な、いわば導かれる、その根本的な助かりの糸口が見つかる。そこにその人が本当にそれからの信心によって、そのう助かっていく事になったら、その助かりが今度は自分の助かりになって来る。人を助けて我助かる事の助かりになってくる。私は七十六節をです、今日このようなふうにこの頂いてみますと、なる程そうだという事が分かります。
沢山の信心者が有りますけれども、金光様の信心者が有りますけれども。やはり牛馬とあんまり変わらんような、例えばただ自分が助かりたい。自分が助かりたいという助かりでは金光教的助かりではない。人を助けて吾助かるという助かり。それには大変な厳しさが必要である。同時に又暖かいというかね、それこそお導きをさして頂くといったような、父性愛に対する母性愛のような、私はそのう親切と申しますか、本当に助からなければならない。
ただその場とにかくそげん苦しかなら一辺、金ば貸そうごとなかけんで、ここにお導きをして来るといったような、例えば金だけの事じゃないですけれどもですよ。とにかく一辺お話しを聞いてみなさいといったようなお導きじゃつまらんね。本当に親が子を思うような情をもってのお導き、又は親が子を思う例えば厳しさ誠実さといったようなものの中に、祈りがあるというような生き方。そういう助け方ね。そこにもっといろいろ有りましょう本当の助け方というものが。
ですから人を助けるという事が、そこんところに有り難いと分からしてもらうという事はですね、本当に自分位の者のお導きによって、この人が真に根本的に助かっていくんだという喜びなんです。「人が助かるという事は有り難いと心得て信心せよ」ね。そこに私は金光教的真の助かり、又は金光教的助けるという事を。助けるという事助かるという事。をこの七十六節から頂いた訳ですね。
どうぞ。